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損得問題

tumblr.をめくっていたら、とあるブログの記事に辿り着いた。

こちらです。
本当はわかっているくせに - 背後からハミング



僕は6・7年ほど前から、「食わず嫌いはやめよう運動」を実施中だ。
単純に損をしてると感じたから。

大勢の人が良しとしてるものは、抵抗があっても一度は体験してみようと努力している。
だって、みんなが楽しんでいるモノを楽しめないなんて悔しいじゃない。
多くのモノを楽しめた方がお得だもの。

でも手を出した結果、「ああ、やっぱりコレはわからんわ」って感じることも多くて、
悔しいなあ。と思う。
映画館で周りがみんな鼻をすすっているのに、自分の涙腺がピクリとも反応しなかったりすると、
「もっと来いよ!俺の感受性!」と行き場のない怒りが湧き出てくるのです。

だから、わからんものはわからんのかなあ。と思っていたんだけど、
先の記事を読んで、はたと思った。

結局、僕もどこかで「わかりたくもない」と思っているんじゃ…?

実際は、くだらない映画で涙している人たちを、
「へっ、こんな映画で泣いてやんの。ばっかでー」と、
どこか見下してしまっているのでは…?
と感じてしまった。

結局僕は、自分のセンスを、自分の理想とするセンスに誘導しようとしているのかもしれない。
「コレを好きな俺はカッコいいぞ」
「コレが好きなんてカッコわるい」とか言って。

カッコいい・カッコわるいを気にすることによって、僕は損をしてるんじゃないか?
やだなあ。もっとなんでも楽しみたいのに。

そう考えると、アニメオタクとかアイドルオタクの人たちとか凄いなあ。
周りからどう思われるかなんて気にせずに、
自分が良いと思えるモノを声高らかに「好きだ!」と叫べるなんて羨ましい。

とは思うけど、やっぱりちょっと、そういう人たちってカッコよくはないよなあ。と思う自分もいる。
どうすればいいんだ!



そこでふと思ったのは、周りにカッコわるいと思われるってことも、
良い印象を与えないわけだから、損をしているんだよなあ。

きっと無意識の内に損得勘定を働かせて、
「このセンスなら認めてもOK。カッコわるくはないぞ」とか思ってるのかもしれない。
なんだか、自分が卑しい人間に思えてきた。
その考え方自体がカッコわるいんではないか?

なんだかよくわからなくなってきたぞ。

確かなのは、「損をしたくない」「得したい」って感情が根底にあるってこと。
でもそれって、やっぱカッコわるいな。
「損得なんてカンケーねえんだよ!」っていう人の方がカッコいいイメージがある。
だったら、いちいち損得を考えることをやめようか?
でもそれは、カッコよく見られたいからやめるわけだから、結局は損得を考えてるってことで…


なんだか堂々巡りで答えが出ません。
ちょっとこれ課題にしよう。
「損得問題」
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テーマ : 日々の暮らし
ジャンル : ライフ

祖母と3D

また実家にちょこっと帰った。
以前書いたように、僕は自分の役割をこなす。

そして、いつものように食卓のメインMCは祖母だ。
この日のトークテーマは「昨日観たテレビの話」
彼女は2011年に、アナログ放送が終了することをやっと知ったらしい。

祖母「テレビが映らなくなるんだと。困ったねえ。」

僕「新しいのに買い替えれば大丈夫だよ。」

祖母「じゃあ、早く買うてこんと。」

父「だったらいっそうのこと、3Dのテレビ買うか?」

祖母「すりーでって何かや?」

僕「映像が飛び出して見えるんだよ。」

祖母「飛び出して?」

僕「例えば、ばあちゃんが野球を観てたとして、打ったボールが画面を通り抜けて、ばあちゃんの所に飛んでくるように見えるの。」

祖母「そしたら、おれ、どうすればいいんだ?」

僕「いや、普通に観てればいいんだよ。」

祖母「でも、ボール捕らねえと負けんねかや。」

僕「いや、ボールは選手が捕るから。」

祖母「選手もおれんとこ来んだ?」

僕「まあ、そう見えるかもね。」

祖母「そんな有名人来ても、何も出すモンねえれや。お茶でいんだ?」

僕「いや、いいんだよそんなもん出さなくて。」

祖母「まあ、そらねえ。試合中はお茶飲んでる暇なんてねえか。」

僕「だから、選手は実際には来ないの!そう見えるだけ。」

祖母「何で来ねんだて。ボール捕らんと負けるねっか。プロの選手なんてみんな一生懸命なんだっけ、捕りに来るて!」

僕「だから…、もう…、アレだよ。ホームランだよ。ばあちゃんの所にボールが飛んできたらホームラン。」

祖母「そしたら、おれテレビに映るろっか?嫌らて、恥ずかしい。」

僕(知らねえよ!)


久しぶりにばあちゃんのトークに絡んだ。
あまりに会話が成り立たないので、
実は知っててボケてるんじゃないだろうか。と勘繰ってしまう。
だとしたら、僕ももっと突っ込みの腕を磨かなければ。

テーマ : 日々のできごと
ジャンル : ライフ

読書

僕は読書の進みが遅い。
それは、本を読んでる最中に他のことを考えてしまうからだ。

目は文字を追いながら、頭の中では全く違うこと、
例えば、昨日友達に言われたことだったり、
ラジオで聞いた内容だったり、
今日は、何食べようかなあなんてことを、考えてしまっている。

当然、本の内容は頭に入ってこなくて、同じ箇所をもう一度、
今度は内容に集中して文字を追う。

これは不便だ。

読みたい本があるのになかなか読み進めることができず、
僕はいつも別のことを考えてしまう自分を頭から追い出したくなる。

いや、ほんとに困るのよ。
こいつを追い出す何かいい方法を、誰か教えてください。

祖父と掛け軸

この土日は用があって実家に帰っていた。

実家にいる時、僕には役割がある。
大きく3つ。


ひとつめは「食べる」

現在、実家に住んでいるのは、両親と父方の祖父母の4人。
しかも、父と祖父は健康管理上、食事が制限されている。
日々の食卓はとても質素なものらしい。
しかし、僕や兄弟が実家に帰ると、途端におかずが豪華になる。
この為、祖父は「もっと頻繁に帰って来てくれ。飯が豪華になるから」と毎回言う。

しかし、僕はもともと食が細く、一日一食でも全然平気な人間だ。
それが実家では一日三食。
さらに毎食、メイン級のおかず(わーい!今日の晩ごはんは○○だ!の○○に該当するもの)が2つ3つと眼前に並ぶ。
追い討ちをかけるように、祖母からの「これも食え攻撃」が連発され、
僕の胃袋はすぐにキャパをオーバーしてしまうのだ。
なら食うなよ。という話だが、食うだけで喜ばれるなら、僕は食う。
それが僕の役割だ。


ふたつめは「食事の後片付け時の話題提供」

あくまでも食事の「後片付け時」だ。
なぜなら、食事の際のメインMCは決まって祖母が務めることになっている。
主なトークテーマは「今日○○さんと話したこと」や「今日テレビで見たこと」など。
もし、祖母がラジオパーソナリティーなら、リスナーからのメールは一通も来ないだろうし、
朝ズバの司会者だったら、全然ズバってないとクレームの嵐だろう。
だが、実家の食卓では誰もクレームを言わない。
「面白くない」と言って、祖母を傷つけたくないのだ。
ゆえに、食卓は彼女の独壇場だ。
食卓のメインMCは祖母。
これは揺るぎないのである。

食事後、祖父母が自室に戻った途端、その場にいる人達の頭には同じことが浮かぶ。

何か、別の話を。

その際の話題提供。これは実家での大事な役割だ。


みっつめは「掛け軸選び」

祖父が盆栽という趣味を見つけるまでは、掛け軸集めが彼の趣味だったらしい。
今でも客間には必ず掛け軸が掛けてある。
それを季節ごとに、その季節に一番合う掛け軸を選ぶのが僕の役割だ。
実家に帰ると、必ずこれを頼まれる。

とは言っても、多分高価なものだろうから、そんなに量がある訳ではない。
だから僕の中では、正月はコレ。春はコレ。と、ルーティーンが出来上がっている。
しかし、悩むのは夏だ。
祖父のコレクションの中には、夏らしい掛け軸が無い。
だから、毎回悩みながらも、結局「言葉モノ」に逃げることになるのだ。
現代人には読解不可能な崩した字で、何か偉い人が言ったであろう言葉が書かれているやつだ。

今日も祖父から掛け軸選びの命を受け、掛け軸がしまってある押し入れの扉を開けた。
すると、掛け軸の数が増えているではないか!
これは、新しく購入したものではなく、家の改築に伴い、別のところにしまっておいたモノを移動したのだそうだ。
片っ端から未見の掛け軸を箱から出し、広げてみる。
その中に、緑が茂る山に流れる川を、渡し船が一艘浮かんでいる絵が描かれている、非常に夏らしい掛け軸があった。
それを壁に掛け、曲がってないかを離れてチェックしていると、居間から祖父がやって来た。
祖父は掛け軸をじっと眺め、
「これを選べるようになったら、お前も一人前だ」と言った。
いや、この掛け軸の所在を教えてくれていたら、僕はもっと早くに一人前になっていたと思うが…。
しかし、
自分が死んだら、掛け軸を父ではなく僕に全部くれる。
とまで言っている祖父に対して、思っていることを口に出すことは出来なかった。


テーマ : 日々のできごと
ジャンル : ライフ

アートに対しての想い

僕が常にチェックしているサイトに「イーゴン自治区」というブログがあります。
このブログを書いているイーゴンさんは、僕が10代の頃、いろいろな面白いもの、カッコいいものを教えてくれた人です。
言うなれば先生ですね。

そのブログで「アートの呪い」というポストがありました。
以下、イーゴン自治区から引用。
「アート」というものがある。
この「アート」なるものを志した人は、一握りの人間を除いてほぼ確実に「呪い」にかかる。「アートの呪い」だ。

「アート」を信じ、深く傾倒した人ほど、「アート」にしか自己実現の対象を見つけられなくなってしまうのかもしれない。そういう人はどうなるかというと、「生活」というものが敵になってしまうのである。

「アート」VS「生活」という対立構造だ。
つまりこれは「抽象的な実存」VS「具体的人生」ってことだ。

生活という日々の営みが自分のアートの足を引っ張るという考えに陥る「呪い」だ。
「これは本当の自分じゃないんです。」とか言って。

僕は美大で4年間アートというものを勉強しました。
そこで感じた事は、
「そこまでアートを信じ、傾倒した人がどれだけいるのか」
ということです。

正直言って僕の見た限りでは、そんな人達は数えるほどしかいませんでした。
ほとんどの人達が作っているのは、アートではなく「課題として作った作品」だったと思います。
かく言う僕も同類です。

「感じた事を筆に込めればいいのさ」
「は?いや、特に何も感じないんですけど」

というのが正直なところ。

課題だから、展示をするから、世間に自分を売り込みたいから、何か作らないといけない。
そこに一生懸命絞り出したコンセプトを入り込ませるのです。
それを、
「いや、僕は社会に対して常々そういうことを感じていまして」と、
絞り出した感情を、あたかも元々自分の中にあったものだと錯覚してしまうのです。


でも中には、本当に「何か」を感じ、その「何か」を作品の中に込める人達もいました。
しかし僕はそれらの作品を見ても、その「何か」を感じる事はできませんでした。
彼らはその「何か」を分かりやすく伝えようなんて考えていません。
ストレートに感情をぶち込めます。

僕は彼らに対して凄くコンプレックスを抱いていました。
自分の作品制作では、どうしても
「どうしたら面白いと思ってもらえるか」というヨコシマな考えが生まれてしまいます。
「評価されなきゃ意味ないよ」と思いつつも、僕はそこから脱却したいと常に考えていました。
本当に、アートというものに憧れていたんです。
そして、卒業制作。
最後くらい、胸を張って「これはアートだ!」と言えるものを作ろうと心に誓い、制作に取り組みました。

そこで出来上がった作品は、自分が今まで作ったものの中で一番の駄作でした。
こんなもん人に見せたくねえよ。と思いました。
そこで僕はアートに対してやっと諦めがつきました。
「俺、向いてねえな」と。

その時、僕は「アートの呪い」から解き放たれたのか。
もしくは最初からそんな「呪い」にはかかっていなかったのか。
そこはよく分かりませんが、今、その呪いにはかかっていません。多分。

テーマ : アート・デザイン
ジャンル : 学問・文化・芸術

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